とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

報道の脳死

 筆者の最新刊「原発難民」を購入した。しかし同時に図書館で予約した本書が先に届いてしまった。当然、貸出期限がある本書を先に読むことになった。「脳死」という言葉は目を惹くが、基本的に現在の日本のマスメディアを批判する本である。それについてはインターネット上でも多くのフリージャーナリストが日々批判し、またマスメディアに伍して新たな報道を実践しているところである。筆者もその一人であり、最新刊「原発難民」もその内容に期待している。
 よって本書の内容については正直あまり新味がない。筆者自身が朝日新聞社で経験してきたことがベースになっており、その点でやや穏健とさえ言える。一方でインターネットメディアが既存メディアに代わり得る存在になっているかと、初等ジョブスキルとマネタライズの点で既存メディアにまだまだ及ばないとしているのは、筆者の経験からの意見と言える。
 いずれにせよ現状では、既存メディア、インターネットメディアとも十分に機能を果たしているとは言い難い。これを筆者は「不幸な空白時代」と言い、「喜んでいるのは、監視がいなくなってのびのびとしている権力者だけ」と言う。確かに昨今の政治状況はまさにそうした「権力監視の空白」が引き起こしていると言えるのかもしれない。
 考えてみれば金融工学に支えられた新自由主義グローバリズムの跋扈もIT技術の発達が要因となっている。報道の脳死はIT技術が引き起こした社会変化の一つなのかもしれない。我々はまだ、IT時代における社会の形を見つけられないでいるのだ。

報道の脳死 (新潮新書)

報道の脳死 (新潮新書)

●「罵声を浴びようと、傷つけようと、悪者になろうと、記録すべきことは記録する」という「職責のために憎まれ役を引き受ける覚悟」が必要なのだ。これは「多くの読者の知る権利のために、自分を犠牲にする」という自己犠牲だ。・・・しかし、3.11報道の現場にいたテレビ・ラジオ記者たちの多くは「汚れ役を引き受ける職責」を安易に捨てている。(P86)
●報道記者とは、国民・市民の「知る権利」の代理人、エージェントにすぎない。国民・市民の一人として「忙しい人々の代わりに見に行って報告する知る権利の代行業」なのだ。(P158)
●「新聞社やテレビ局はコンテンツの優秀さによってマスメディアの支配者だったのではなく、インフラの独占によって支配者だった」ことが読者・視聴者にバレてしまったのだ。・・・こうした旧型メディア企業にとって最後の「独占」「特権」が官庁や政府、役所、企業への取材のアクセス権である・・・その独占的アクセス権を制度化したのが「記者クラブ」である。(P167)
●権力の不正監視をやってくれるなら、市民の自由を権力から守るための情報を運んでくれるなら、・・・メディアは何でもいい。・・・それが現在の「新聞社やテレビ局でなければならない理由」はない。(P234)
●既存メディアは衰弱しきって脳死状態。しかし、インターネットによる報道を持続させる仕組みは姿を現さない。そんな「不幸な空白時代」に我々はいる。それは権力監視の空白であり、民主主義の空白である。・・・喜んでいるのは、監視がいなくなってのびのびとしている権力者だけである。(P241)