オルガ・トカルチュクは昨年発表された2018年のノーベル文学賞を受賞したポーランドの作家。邦訳された作品はまだ少ないが、その一つ、「昼の家、夜の家」を読了した。
ポーランドの南西部、チェコとの国境付近にある人口2万5千人ほどの小さな町ノヴァ・ルダを舞台に、人々の生活や因習、夢想、伝説、諦念、そして事件や日々の変わらぬ出来事が重ねられていく。キノコ料理のレシピもある。111もの長短様々な挿話により構成される手法は、それぞれ全く別の話題のようで、緩やかに連関している。
解説に、「ラテンアメリカのマジック・リアリズムにも比される」とあるが、まさに独特の小説世界を作っている。しかも、なぜか明るい。暗い話もあるが、何度も差し込まれる隣人マルタとの交流は土地の人のしたたかさと温かさに満ちている。そしてタイトルにもある「家」はまさに自分の身体そのもの。「世界を知るのに、家から出る必要なんてないわ」(P57)、「どこを見ようと、人はいつも自分自身を見ている」(P178)。マルタの言葉はいつも深遠だ。
具体的に把握できる「昼の家」に対して、どこへも飛んでいける果てしない「夜の家」。そして「見ることのできる世界の数だけ、ちがう世界に住める」(P305)。ノヴァ・ルダは幾重にも重なって、人の想いや夢や暮らしを育んでいる。人はそうした土地に生きている。ノヴァ・ルダに限らず、どこに住んでいてもそうだと思う。我々は土地に生き、土地に住まう。
○最初の夜、わたしは動かない夢を見た。夢のなかで、わたしは観念そのもの、視線そのものだった。…谷間を見おろす高い位置にわたしは固定されている。…その地点からはすべてが、あるいは、ほとんどすべてが見わたせる。自分自身は動かなくても、観念のなかで私は動く。むしろ、世界がどう見えるかはわたし次第だ。…わたしはコンピュータの画面に映るカーソルみたいなもので、勝手気ままに動き回っている(P5)
○「世界を知るのに、家から出る必要なんてないわ」いきなりマルタがこう言った。…旅に出ると、自分のことにかかりっきりになる。…まるで自分こそが旅の目的地みたい。でも、自分の家のなかでは、自分は単に存在するだけ。…自分のことにかまわなくていいとなると、いちばん多くのものが見えるようになる。…そんな話もやがて尽きると…ふたりのあいだに、沈黙の種がこぼれおちる。(P57)
○見るということは、まなざしというピンで留めて、殺すこと。…でも、それは世界の偽の姿だ。いつも世界は動き、震えている。わたしたちが記憶し、理解するための、いかなる零点も存在しない。…人は風景のなかに、自分自身のなかの、刹那に移りゆく一瞬を見ている。どこを見ようと、人はいつも自分自身を見ている。それだけ。こういうことを、マルタは言いたかったのである。(P178)
○わたしは自分の家を、なにか食べ物みたいに考えていた。/でも、いつか気がつかないうちに、本当に食べてしまっていたのかもしれない。なぜなら家は、いつも決まってわたしのなかにあるから。…わたしはマルタにこう言った。人はみな、ふたつの家を持っている。ひとつは具体的な家、時間と空間のなかにしっかり固定された家。もうひとつは、果てしない家。住所もなければ、設計図に描かれる機会も永遠に巡ってこない家。そしてふたつの家に、わたしたちは同時に住んでいるのだと。(P255)
○変わらぬものはあるにはある、けれど、どこか遠くの、わたしの手の届かないところになるということだ。わたし自身は流れにひとしい。わたしはノヴァ・ルダの、刻々と色を変える小川だ。そしてわたしはひらめいた。わたしが自分自身について唯一言えるのは、わたしは時間と空間のなかを泳いでいるということ。わたしはそういう、場所と時間が備えている特徴の合計であって、それ以上のなにものでもない。/これらすべてから唯一得られるのは、ちがう視点から世界を見れば、世界はそれぞれちがって見えるということ。つまりわたしは、見ることのできる世界の数だけ、ちがう世界に住めるのだ。(P305)