竹田青嗣の本はいつか読みたいと思っていた。だがどれも難しそう。と思ったら「哲学とは何か」というタイトルの入門書が出版された。竹田青嗣は哲学をどう論ずるのか。興味を持って読み始めた。
「序 哲学の方法と功績」で、共同体の秩序を安定させるため、宗教は「物語」(神話)によって「世界説明」を行う。一方、哲学は「概念」と「原理」によって世界説明を行う、すべての人間の理性に開かれた世界説明の「言語ゲーム」だと説明されている。宗教との比較がすごくわかりやすい。
入門書と書いたが、古今東西の哲学思想を紹介する類の書物ではない。竹田が追求してきた哲学、「存在の謎」「認識の謎」「言語の謎」について、ニーチェとフッサールによって既に解明されているとして、それを説明する。一方で、彼らの業績がなぜ現在に伝わることなく、ポストモダン思想などの相対主義の檻に迷い込んでしまったのか。そもそもフッサールの直系の弟子と言われたハイデッガーにおいて、十分フッサールを理解せず、存在論の道に迷い込んでしまったところから始まって、ウィトゲンシュタインらの分析哲学の流れ、デリダやフーコーらによるポストモダン思想、そして現在のメイヤスーらの新・実存論までを説明していく。それらは批判的に紹介されているが、本論はニーチェとフッサールによる「普遍認識」への追及であり、「本質観取」の具体的な事例も興味深い。
現在、多くの人々が資本主義から突き進んできた現代社会は変革されるべきだと考えている。だがその時に、ポストモダンなどの相対主義は芯となる思想を提示できない。「普遍戦争を抑止しかつ人間の自由を確保する」。このための社会原理は「自由な市民社会」の理念しかない。そしてそのための議論が「哲学テーブル」の上で、より幅広く進められるべきだと提案する。哲学とは、ただ難解な言語と思想を振り回すことではない。より良き社会をいかに実現していくか。そのためのツールであり、学問である。そうした筆者の熱い思いが伝わってくる本である。
やはり竹田青嗣は面白そうだ。そしてその目は真摯に、より良い社会の実現に向けられており、好感を持った。これからも竹田青嗣を読んでいこう。そう思った。
〇哲学とは、その起源からいって、多様な考えをもつ人間が集まって、ある問題について共通の了解を創り出そうとする、「開かれた言語ゲーム」として現れた。…哲学の方法を、「物語」によって世界説明を与える宗教の方法と比べれば、…それは文化や宗教的枠組みを超えて、より「普遍的な考え方」(=共通の世界説明)を創り出す方法であ…る。/ただ…概念を論理的に使うというその特質から…詭弁的論理の方法、相手を何とでも論駁する「帰謬論」が出てくるのである。(P32)
〇それぞれの生き物はそれぞれの「生の力」(欲望・身体のありよう)に応じて(相関的に)最も適切な世界認識をもつ。…われわれが「客観的に存在する世界」と見なしていたものは、各人が「生の世界」を言葉で交換しあうことから成立する、「想定された世界」にすぎないこととなる。…そもそも認識とは、個々の生き物のうちでその欲望‐身体(=力)と相関的に生成される、ひとつの「世界分節」にほかならない。これがニーチェの「力相関性」スキーマからの結論である。(P63)
〇フッサールによる「世界説明」の卓越した独創は、個々の人間(あるいは共同体)はさまざまな「世界像」をもって生きているということ、そして絶対的に正しい世界像(真理)は存在しないこと、したがって…信念対立が生じた場合には、相互承認と共通了解を可能とする「世界説明」の創出だけがその克服を可能にすること、などを明らかにした点にある。…世界の存在は厳密な認識対象とはなりえないが、しかし我々にとって不可疑なのである。(P108)
〇現在、多くの人々が現代社会は変革されるべきだと考えている。しかしそのために必要な社会理論の構想が、価値理念の多様性の問題と相対主義の思潮によって長く阻害されてきた。…社会を、人々によってつねに改変可能な構造という「本質」として捉えるなら、近代市民社会は「一般意思」によって構成される「ルールゲーム」として把握されねばならない…これを受けて、統治は「一般意思」の最善の表現をその根本理念とせねばならない。(P269)
〇人間社会が、普遍戦争を抑止しかつ人間の自由を確保しつつこれをより発展させるための社会原理は…たった一つしかない。つまり「自由な市民社会」の理念だけである。それゆえ、現在われわれが現代社会の矛盾を克服しようとするなら…この社会原理を原則として進むほかない、…社会の思想は…「理想」の提示であってはならず、どこまでも普遍的な理論(思想)として提示されなければならない、…そしてその多様な「普遍的な考え」の提案を多くの人の吟味と検証に開くことによって、より優れた普遍的な原理として鍛えてゆくこと。(P275)