とんま天狗は雲の上

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「『平和を』拳突き上げ」という新聞見出しの違和感

 今朝の中日新聞社会面に「『平和を』拳突き上げ」という見出しが大きく掲載されていた。その下に「ウクライナ選手 戦時下の行進」をあるので、北京パラリンピック開会式での様子を伝えるもので、事実ではあるのだろうが、「平和を」という言葉と「拳突き上げ」が並ぶ見出しに強い違和感を覚えた。

 もちろんこれまでもオリンピックの表彰式などで、拳を突き上げ、抗議行動をするということはあったし、街頭を練り歩くデモでも「○○反対!」と叫びながら、拳を突き上げることはよくある。でもそれが平和につながるだろうか。相手が倒され、いなくなれば自分にとっての安心が生まれ、それが平和ということだろうが、それは真の平和ではない。いがみ合う両者が手を取り合い、抱き合える状況になることが平和だ。そしてそれは拳を突き上げることで訪れるとは思えない。

 この1週間、ロシアやプーチンを非難する報道であふれている。中には「プーチンに精神異常が認められる」といった記事まであり、まるで早く「プーチンを殺せ」と言わんばかりだ。だが、たとえプーチンが死んだとして、それで世界は平和になるだろうか。一部のウクライナ市民やアメリカなどは、目障りな者がいなくなればそれが平和だと言うかもしれないが、一方で悲しむ人がいるとすれば、それは真の平和とは違う。

 例えば、銀行にいる時に刃物を振り回しながら強盗が入ってきたら、我々はどうするだろうか。もちろん逃げられるようであれば逃げるが、逃げられず、銀行員とともに監禁されてしまったとしたら、激昂する犯人がそれ以上逆上しないように、まずは遠巻きに離れ、静かにするだろう。できれば「落ち着け」と声をかけるかもしれない。現場を取り巻く警察のように、犯人以上の武器と実力を備えていれば「刃物を置いて投降せよ」と言ってもいいが、丸腰の被害者であれば、警察のような物言いや「お前は精神異常者だ」などと相手をさらに興奮させるような言動はしないはずだ。

 これが、アメリカやNATOの軍隊がロシア軍を圧倒的な軍事力で包囲している状況であれば、まだ理解できる。だが、バイデン大統領は未だに軍隊を派遣しないと言っている。であれば、この状況で起こすべき行動は、「プーチン、落ち着け」「ロシアの危機感もわかる」「悪いようにはしないから、まずは武器を置いて話を聞こう」と、まずはロシア側の論理に歩み寄って、その上で調停をしていくことではないのか。

 今のように、ひたすらロシアを非難し、プーチンらを貶めることが、本当に戦争の中止や平和につながるのだろうか。かえって憎しみが増すばかり。人々の間に憎悪と不機嫌な感情を湧き起こすばかりではないか。アメリカやEU側はいったいどういう結末を描いているのだろうか。アフガニスタンのような内戦化、もしくはロシアの北朝鮮化? いずれにせよ、真の意味での平和にはつながらない。

 正直、私は最近、テレビでこうしたウクライナの戦禍やロシア非難のニュースが始まると、すぐにチャンネルを変えるようになった。自分の中に湧き起こるイヤな感情を持ち堪えることができない。見ていられない。だから早く今の状況が終わってほしいと願っている。だがそれが今のような一方的なロシア叩きの末に訪れるとは思えない。真の平和に向けて、世界は正しい行動を起こしてほしいと願っている。