とんま天狗は雲の上

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経済学の堕落を撃つ☆

 過激なタイトルだが、まさに筆者の、現在の経済学に対する憤懣が籠められている。本書は、経済学のそもそもの始まり、ドイツが国家統一を果たし、ハプスブルク帝国オーストリアから独立した19世紀後半から始まる。個人の「自由」を目指したオーストリア学派の祖・メンガーと、「正義」や「公正」を理念として掲げ、経国済民の学としての経済学を主張したドイツ歴史学派の祖・シュモラーの対立だ。

 メンガーの経済学はその後、アメリカに渡ったシュンペーターを経て、ハイエクフリードマンにつながり、ゲーム理論テイラー主義フォーディズムなどを生み、新自由主義へと至る。一方、ドイツ歴史学派の経済学は、マルクスの登場やソ連が誕生する中、「公正・正義」の観点を貫いた新たな社会主義的構想を示したポランニーに繋がっていく。本書はポランニーの経済学を軸に、現在の「右肩上がりの進歩」を自明とする市場的自由主義経済を批判し、人間の生存と価値を根底に置いた経済学を提唱していく。

 後半ではブローデルの「世界システム分析」が紹介され、アリギやサイードらの「オリエンタリズム」やガルトゥングの平和学、イリイチウォーラーステイン、さらにはMMTやピケティの評価などにも及んでいく。それらは駆け足でもあり、私の知識不足もあって、十分には理解できないが、土台としての「物質世界」の上に「市場経済」、「資本主義」が重なるとするブローデルの「三層構造」はよく理解できるし、ポランニーが指摘する「本来、商品ではなかった『人間・自然・価値』が『労働力・土地・貨幣』という商品になった」結果、「人間が『擬制商品』となり、脱社会化された」(P230)という指摘も興味深い。

 昨今、社会格差の拡大や欧米中心の覇権主義の衰退とともに、コモンズの重視や資本論の見直しなどが注目を集めている。斎藤幸平なども同じ方向だろうか。今後、こうした「正義・公正」を核にした経済学が復権し、主流となっていくことを期待したい。

 

 

○経済学の担うべき理念は「自由」か、あるいは「公正」か。「自由」を謳う側は当初、政治的権威による権力の濫用や共同体のしがらみから個々の人間を解放することを目指していた。対する「公正」の側とは、いわゆる経国済民の思想であり、経済は天下国家の視点から論じられるべきだと反論した。/だが「公正」の理念は残念ながら、以後、経済学の分野においては次第に後景に退いていく。(P22)

○経済発展のダイナミズムを生み出すのは資本、すなわち「元手」である。そこに労働や資金が投入されて生産が行われ、利潤が生まれ、再生産のサイクルが可能となる。したがって…誰がそれをもっているのか、そこから上がる利益は誰のものになるのかが重要な問いとなる。社会主義はこの点に着目し、「元手」を社会、すなわち共同体をなしている人びとの手に取り返そうとした。(P80)

社会主義経済の目的は…人びとの社会的権利や公正という要請に従って分配を行うことにある。分配には、もの(財)の分配だけでなく、労働という苦役の分配もある。…分配の判断を行う主体や組織、制度としては「労働者による管理」…つまり「社会」において、人びとがそれぞれの欲求や要求を打ち出したり互いに調整したりしていくのが、実質的な決定方法である(P95)

ブローデルの「三層構造」の概念、つまりいちばん下の土台として、物質と人間の代謝が行われる日常的な「物質世界」、次いでその上に広義の「市場経済」、さらにその上に、その特殊な形態としての「資本主義」を置く…。たとえば穀物を例にとると‥、世界には…三大穀物をそれぞれ糧とする、その地域独自の物質文明が存在し、次にそれを流通させる市場経済があり、さらにその生産、流通プロセスを集中させて、利益を生み出していく資本主義のダイナミズムがある(P186)

○「西」の資本主義モデルは…市場経済と同じではなかった。西洋は、軍事力を背景にして資本蓄積を求めるという好戦的な国家の利害関心のもとで資本主義を発展させ、その強制力によって空間的拡張を達成して、非西洋を支配下に置いたのだし、また、一国内の社会階層の観点からみても、資本を所有する階層は強制力、ときには暴力をも行使して分配を行うのであって、その行使はそもそも非市場的である。(P198)

新自由主義自由主義の新しい型として、誰もがみずからのもてる力を発揮すればゆたかになれると喧伝することによって、階級の概念を焼失させようとしていた。マネジメントの意識によってもっぱらみずからのみに関心を向ける人びとは、みずからが労働者であるという意識をあまり心地よく感じなくなっていった。彼らは…資本家階級の見方をみずからに内面化するいっぽう、それでも現実には労働者階級に所属し続けているという矛盾した存在だったのである。(P214)

○ポランニーの『大転換』…では、本来、商品ではなかった「人間・自然・価値」が、「労働力・土地・貨幣」という商品になったことを指して、これらを「擬制商品」、すなわち「虚構の商品」と定義した。人間は擬制商品となったことにより、本来もっていたはずの社会的な紐帯を失い、脱社会化させられてしまったのだ。(P230)