哲学者と自称する学者は多い。だが、その多くは、他や過去の哲学者を研究し、または手前勝手な思考を開陳することを主な活動としている。本当の意味で、哲学をしている学者は少ないように感じる。武田青嗣はその数少ない本当の哲学者の一人だ。
ソクラテスやプラトンの時代から、カントやヘーゲル、ニーチェやハイデッガー、フッサールらに至る思想を追い、人間の生や存在の意味などについて思索する。しかしその後現れた現代哲学(ポストモダン思想や相対主義哲学)は本当の哲学ではないとまず、第1章の「哲学の本質」で批判する。そして第2章以降、ニーチェやフッサールの哲学を起点に、筆者が主張する欲望論哲学の思索を進めていく。
正直、かなり難解で、どこまで理解したかは心許ないが、人間の成長を母-子関係をベースに、いかに人間としての価値観を得ていくかを説明する部分は、従来の「神」やそれに代わる「本体」に依りかかるカントやハイデッガーの哲学に比べ、理解しやすく、同意できる。後半は、美や芸術論について論じる。「われわれの生の本質が疲弊し、陰鬱となり、枯渇せぬように、美と芸術の営みが存在する。」(P331)とする文章は芸術の有用性を評価している(たぶんこれらの文章は、竹田氏によれば「間違っている」と批判されそうだが)。
第1章で、民主主義と資本主義を肯定的に評価する文章がある。その時は、唐突な感じで理解できなかったが、読み終わった今、その意味が理解できる。筆者はあくまでも人間の生を、そして自由を、最大限に生かしていくことが必要だと考え、また暴力を否定する。われわれは今以上によりよく生きる権利がある。どうすればそう生きることができるのか。哲学をする意味は結局、そこなのかもしれない。
○「近代市民社会(国家)」の原理は…万人に自由と価値の多様性を保証する社会システムである。その政治原理は一般意思統治(民主主義)であり、その経済システムは普遍市場(資本主義)経済であって、この組み合わせは代替不可能である。…すなわち「近代市民社会」の政治原理だけが万人に自由を与える唯一の原理であり、また普遍市場経済の原理だけが国家間の敵対関係を宥和するはじめての原理である。(P30)
○すべての生主体が存在本質として備えるこのエロス的力動を、われわれは「欲望」と総称する。世界は、根源的に、「欲望」という中心から価値的に分節、生成される。…個々の主体は自分だけの「内的体験」の世界を生き、それらはみな異なっている。しかもそれはたえず変化する「生成」の世界である。だが人間は、言語ゲームによって「内的実存」の世界を互いに交換する。その結果、誰もが、自分が他人と「同じ一つの世界」を生きているという暗黙の確信を形成するのである。(P66)
○動物は、その身体によって環境世界に働きかけ、糧を得ることで生存を維持する。人間の世界は環境世界ではなく関係世界である。それゆえ人間は、身体によって事物に働きかけるだけでなく、むしろ関係正解に、つまり他者に働きかけねばならない。…人間の欲望の本質的対象は自然的糧ではなく、関係世界を生きることそれ自身である。それゆえ人間の身体は、関係世界へ働きかける力能としての「能う」をその本質としてもつ。(P143)
○人間の自我は、まず他者との関係のうちで、自分の欲望を対象化し、その価値を評価し、その上で他者関係に主体的に働きかけて欲望を実現する「主権的主体」である。つぎに、他者関係のうちで絶えず「関係感情」の世界を形成し、そのことで喜び、悲しみ、嫉妬、憎悪、愛着といった対他的感情世界を生きる「心的存在」となる。さらに、自分の欲望と充足の結果を自己の生の全体のうちで評価し、そのことで「生の目的」を形成しつつ生きる実存的な生主体である。(P189)
○われわれが芸術や文化や思想の自由な「活動」のテーブル(=公共のテーブル)をもつのは、人間社会が暴力と闘争の原理にたえず対抗すべき理由をもつこと、それなしには人間的価値は存続しえず、人間の倫理も精神の自由も存在しえないことを、われわれが暗黙のうちに知っているからである。/*人間世界では、死への根源的な不安、そこから現われる相互不安から普遍暴力の契機がつねに生み出されている。人間社会が、根本的に「善」や「正義」の価値を必要とするのは、暴力契機の縮減へのたえざる努力が必要だからである。同じように、こうした社会規範の維持の必要のうちで、われわれの生の本質が疲弊し、陰鬱となり、枯渇せぬように、美と芸術の営みが存在する。(P331)