とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

ゼロからの『資本論』☆

 2年ほど前に読んだ「人新世の『資本論』」は衝撃だった。資本主義の本質を暴き、「脱成長コミュニズム」を主張する。その後、斎藤は一躍、時代の寵児となり、NHKの「100分de名著」でも「資本論」を解説していた。しかも昨年の年末には再放送もあった。で、本書は、その「100分de名著」を底本に加筆したものと言う。「ゼロからの『資本論』」というタイトルだが、けっして『資本論』の解説本ではない。「人新世の『資本論』」では、「脱成長コミュニズム」の先進事例や具体的な施策提案などもあったが、本書ではそれらはなく、より『資本論』に根差した解説が多くなっている。だが、思想的には「人新世の『資本論』」からさらに加わった部分というのはあまり見えてこない。でも、そのぶん、本書の方が読みやすいかもしれない。

 今、続いて「大洪水の前に」を読んでいる。斎藤幸平の原点はたぶんここだろう。それをいかにわかりやすく展開するか。その一つが本書のような気がする。でも、ということは「ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカと闘い、水俣で泣いた」も読んだ方がいいのかな。「大洪水の前に」を読み終えたら、読んでみよう。「大洪水の前に」、ちょっと苦戦しているけど。

 

 

○かつて<コモン>だった森や水は、誰もがアクセスできるという意味で「潤沢」な「富」でした。しかし、これは資本主義にとって非常に都合が悪い。…だから、<コモン>を解体して独占し、あるいは破壊までして、買わなければいけないモノ、つまり「商品」にしようとするのです。/とはいえ…森を独占したとしても、そこに生えている木を伐採し、製材しなければ「商品」になりません。「商品」にするためには「労働」が必要です。この労働を担ってくれるのが、森から締め出され、薪を買うためにお金を必要としている人々です。<コモン>の囲い込みは、資本にとって二重の意味で好都合だったのです。(P31)

○資本は「お金」ではなく、工場や機械や商品のような「物」でもない。マルクスは資本を“運動”と定義しているのです。/どんな運動かというと、絶えず価値を増やしながら自己増殖していく運動です。…要するに、資本とは金儲けの運動であり、この金儲けを延々と続けることが第一目標になっている社会が、資本主義なのです。(P59)

マルクスが労働日の短縮を重視したのは、それが「富」を取り戻すことに直結するからです。日々の豊かな暮らしという「富」を守るには、自分たちの労働力を「商品」にしない、あるいは自分が持っている労働力のうち「商品」として売る領域を制限していかなければいけない。そのために一番手っ取り早く、かつ効果的なのが、賃上げではなく「労働日の制限」だというわけです。(P84)

○資本の専制が完成すると、…向上した生産力もすべて資本家のものとして現れる、とマルクスは言います。実際には、労働者が“協業”して行った労働が生産力を上げているわけですが、それは「労働者の生産力」としては現れずに、「資本の生産力」として現れてしまう。なぜなら、労働者たちは自らの意志で、自律的に協業しているわけではないからです。…こうして生産力が増大すれほど、資本による支配がむしろ強まっていくとマルクスは批判しているのです。(P112)

○コモンに基づいた社会こそが、コミュニズムです。…社会の「富」が「商品」として現れないように、みんなでシェアして、自治管理していく、平等で持続可能な定常型経済社会を晩年のマルクスは構想していたのです。…コミュニズムは贈与の世界と言ってもいいでしょう。等価交換を求めない「贈与」、つまり、自分の能力や時間を活かして、コミュニティに貢献し、互いを支え合う社会です。(P199)