とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

サッカー派の日本観

 60歳以上の男性は大半が野球派と思われているかもしれないが、サッカー派も少なからずいる。筆者の年齢は書かれていないが、略歴などを読むと、私よりも少し年下の60歳前後か? 高校時代、サッカー部だったようだが、その後は日本の商社、さらに外資系会社に勤務して、他国のビジネスマンと交流する中で、海外では野球はごく一部の国でプレーされているだけで、ほとんど話題にもならず、サッカーがスポーツ談義の中心だということを知る。

 そして、日本のマスコミがいかに野球に偏重しているかを思い知る中で、その弊害、特に国際性、多様性が損なわれているかと指摘する。一方、サッカーこそがこれらを克服し、世界における日本の地位も高めるのではないかと主張する。それは同じサッカー派としてよく理解できる。多くのサッカー関係者やジャーナリストがこれまでも主張してきたことと同様だ。

 この①国際性、②多様性に加え、筆者は、FIFAの組織を参考に、③統合性を主張するが、これはどうだろうか。世界最高峰のW杯から、各国の末端のクラブや学校の部活動に至るまでツリー構造で網羅しつつ、一方で柔軟な運営が行われているというのだが、一時の汚職騒動などを思うと、必ずしも絶賛するばかりでもないとは思うのだが。

 面白いのは二つの付録。一つ目は、英語を難なく駆使し、U-20ワールドカップで日本を優勝に導く高校生を描く短編のあらすじのようなもの。そして、2つ目は「本当にサッカー派の推進でいいのか?」と自問・再考する。結論は、どうせこの世は仮象であれば、世界をどう認識しようが程度問題。ならば自分は当面の間、サッカー派でいく、というもの。まあ、確かに、サッカー派が正しい、野球派はどうたらと議論したところで、世界は変わらないような気もするが、しかし実は世界、いや日本も少しずつ変わっていっているのではないか。

 というのも、筆者が指弾するマスコミの偏重という問題も、そのマスコミ、新聞やテレビを見ない若者は増えているように思うから。結局、マスコミは50歳以上の高齢者のメディアであって、30代以下の人々はもっと冷静かつ多様になっているように感じる。野球派の弊害は杞憂にすぎないのではないか。いやもっと違うレベルで、日本の劣化は起きているような気がする。日本国民がサッカー派になればそれで社会がよくなるというものでもないだろう。もっともこの種の話は、サッカー派はとっても好きだけどね。まずはなでしこたちに女子W杯でがんばってほしい。そして社会の目が多少でも変わってくれるとうれしいとは思う。

 

 

○マスメディアを中心にした野球偏向によって、残念ながら見失われてしまっている国際的な感覚を、サッカーという途轍もなく国際色豊かなスポーツの実態を深く知り、触れ合うことによって…、単なる政治・経済だけでない現実の「世界」感覚を獲得する縁にすべきだと主張したいのである。(P52)

○WEリーグが…「女子サッカースポーツを通じて、夢や生き方の多様性に溢れ、一人ひとりが輝く社会の実現・発展に貢献する」という崇高な理念のもとでスタートした…が、このコンセプトに心から賛同するメディアが、おそらくなかったのだろう。…形の上では決して明るい出だしになっていない。…日本の現代社会の奥底に、根深く蔓延る国際性と多様性の大いなる欠如によるのではないだろうか。(P69)

○東南アジアから中東に至るアジアの広大な地域で、これほどサッカーが支持され、熱狂的に受け入れらている環境下、日本は「アジアのサッカー最強国の一つ」として確固たる地位を既に確立して…いるのである。…軍事力や経済力、政治的圧力だけでアジアの指導的な立場に立つことはできないのだから、文化面を含めた日常的な社会生活の中で、日本という国を浸透させ、アジア諸国民の意識に上らせることが必要であろう。今、それが日本で可能なのは…サッカーしかないのではないか。(P132)

○その中で興味深かったのは、日本のメディアから日本語で質問がなされた際、これは日本のメディアだけに対応する機会ではないので、英語での質問にして欲しいと日本語でのコメントを拒絶したことだ。(P217)

ホモサピエンスは常に理性的なものを追及することにより、自然を征服し、自らの欲求を満足させてきたのだが、その数万年ほどの歴史の中で、理性ならざるものが度々顔を覗かせては、我々が何者なのかをもう一度問い直させる事象や瞬間が、誰の身にも起こったに違いない。…この現代社会にあって、その問い直しの機会を…投げ掛けているのが、サッカー的なものの正体ではないだろうか。…手を使わず、頭をボールに激しくぶつけるサッカーの持つ根源的な野蛮性。(P239)