とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

なんかいやな感じ☆

 武田砂鉄の本はデビュー作の「紋切型社会」以降、ほとんど読んできた。言葉はわかりやすいが、ある事柄に対してねちねち・ぐるぐるとあらゆる角度から批評しようとする。はっきりした結論に至らず、結局、何が言いたいのかわからなくなる。そんな文章も多く、少し飽きてきたという感じ。本書も最初、そんな気持ちで読み進めていた。

 宮崎勤の連続幼女誘拐殺人事件の現場に近いところに住んでいた。しかも彼が殺した幼女たちと年齢が近い。平成元年はそんな事件から始まった。その年に幼稚園を卒業し、小学生となった。14歳の時、神戸連続殺傷事件が起きた。犯人は筆者と同い年だった。そして2008年、秋葉原通り魔事件が起きる。犯行を犯した加藤智大も筆者と同い年だった。そんな筆者は、平成30年間をどう感じ、生きてきたのか。

 もちろん、同じ年に生まれた者は日本に150万人以上いる。平成30年間を生きてきた者は、私も含め、8000万人近くはいるはずだ。しかし、それらの人々が平成年間をどう感じて生きてきたかはそれぞれ異なる。私にとっては、阪神淡路大震災姉歯事件は大きな事件だったが、筆者はほとんどこれらの出来事を取り上げていない。今年42歳になる筆者にとって、平成という時代はどう感じたのか。それが「なんかいやな感じ」。わからないではない。

 ほぼ年代別に綴られた本書を読むと、筆者がライターになったのはどういう経緯だったのか、どういう経験を経て、現在の批評精神や文筆能力を身に付けてきたのかがよくわかる。その点でも興味深い。連載時は「『近過去』としての平成」というタイトルだったそうだが、単行本発行にあたり、新たにタイトルを付けた。でも、副題としてでも「『近過去』としての平成」というタイトルは残してもよかったのではないか。

 特定の時代のそれぞれの経験や感じたことなどを書き起こすというのは、意味ある仕事だと感じた。もちろん筆者ほどの能力があってこそではあるが・・・。特に最終盤が面白かった。

 

 

○すっかり、「管理したい!」という欲が街に溢れている。…そんなに管理しないでください、と異議を申し立てたつもりでも、いえ、管理ではなく、便利になったということですから…とのメッセージが返ってくる。…このモノによって…こんなに短い時間でできるようになります、という伝達が続く。…そうやって時間を必要とする行為をひとつひとつ潰していく社会って、成熟ではなく単純化でしかない。(P092)

○強い気持ちを持って問題を告発した…人たちよりも、簡素にまとめ上げる力が強く、そうなると、加藤智大が書いた「ものすごい不安とか、お前らにはわからないだろうな」は、それなりに的を射た問いかけにも思えてしまう。それは決して共感や理解ではなく、この意見の存在をひとまず片さずに認識しておきたい、という程度だが、それを…「理解しちゃっていいのか」と取り除く腕力は強い。そういうことではないのに。(P206)

○一人の人間が実際に体験できることは限られている。だからこそ私たちは、本を読んだり映画を見たりしながら、他人の経験を知る。あるいは架空の物語に身を委ねる。…「体験してない人間が言うのはおこがましいというような言い方もありますが、そんなこと言っている場合ではない」という言葉を思い出す。この態度がなければ、歴史は後世に伝わらない。…経験していない出来事を引き受ける、そして受け継ぐ・語り継ぐのって簡単ではない。(P238)

○昭和の末期に生まれ、平成を生き、令和で何年か過ごした自分は、社会という枠組みを希望的に見つめた経験に乏しい。かといって、悲観しきっているわけでもない。でも、なんか、ずっと、いやな感じがある。…社会が変動するなかで、実はもろもろピンチなのだけれど、ピンチって顔をすると責任を負わなければならなくなるので、澄ました顔で「よろしくね」って手渡せば、…自分たちのせいだと恨まれずに済むのではないかという画策が見える。…だから、ずっといやな感じがしているのではないだろうか。(P254)

○一堂に会しても、そこで皆が同じ方向で考えるなんてありえない。ズレるし、ズレたままになる。どんな人でも、その人が考えてきたことの集積が自分にとっての「社会」になるので…簡単には共有できない。ところが、かしこまった世界では、まるでひとつの「社会」があるかのように語られる。そうではなく、「社会」を語るより「感じ」を語ってみようと目論んでみた。(P264)