とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

現代日本の転機

 「大震災後の社会学」の中でもっとも印象に残り、興味を引いたのが、高原基彰氏が書いた第3章の記述である。東日本大震災により、「自民党型分配システム」と「日本的経営」「日本型福祉社会」が組み合わされて推進されてきた「日本型システム」の持つ問題が前景化してきたと説明するその内容は説得力があり、かつ斬新な社会観に思えた。そこで紹介されていた本書をぜひとも読みたくなった。
 日本は欧米先進諸国とは違った戦後の社会発展と思想展開を遂げ、結果的に世界に類を見ない閉塞感に満ちた社会状況に閉じこめられている。政治は経済運営と同化し、財界に頼った福祉制度が崩壊するとともに、国家は国民とは遊離した組織体となってしまった。
 本書ではそのことを、欧米諸国の福祉国家新自由主義を巡る思想と社会状況、「超安定社会」が定着するまでの日本の社会状況、その後バブル期までの変化、そしてバブル崩壊後の日本社会と新自由主義について、多くの社会論等を引用しつつ詳述していく。
 「終章 閉塞感の先へ」でようやくその処方箋、いやこの状況を打開するために考えるべきテーマが3点提示される。(1)持続可能性、(2)熟慮する民主主義、(3)新しい社会構想だ。いずれもほんのメモ程度しか書かれていない。自分で考え、自分たちで作っていかなければならない。誰も与えてはくれない。それこそが今求められている日本の、そして日本人の転機そのものなのとでも言うように。
 それでもなお、筆者が執筆する続編があればぜひ読みたいと思う。今もっとも期待する若手社会学者の一人だ。

●「安定」の理念は、・・・「身分制」を前提としたものであり、メンバーの「安定」の維持のために、他の誰かを安価で「調達」しようとする思考と密接不可分でありつづけた。それがうまく行っているように・・・見えたのは・・・一種の偶然だったのであり、今ではもう「安定」の理念に含まれる不平等性を隠蔽し続けることはできないだろう。/かといって、「安定」への反発を自己目的化した、かつての「自由」の理念も、その「安定」への信頼性が揺らいだ今は理想像として機能しえない。「自由」と「安定」双方の行き着く先に、どちらにも明るい未来が見通せないことが、思想的な閉塞感をもたらしている。(P21)
●私が、「超安定社会」という右バージョンの反近代主義は「73年の転機」以降に完成したと考えているのも、一種の疑似福祉国家としての「日本的経営」「日本型福祉社会」「自民党型分配システム」が、この時期以降にこそ影響力を増していったと思われるからである。・・・先進国の「福祉国家レジーム」を比較研究したエスピン―アンデルセンの著名な研究でも・・・「日本は福祉国家を必要としない福祉社会である」という日本の特性を強調する議論に一定の賛意を示した・・・。特に「福祉元年」以降の日本は、福祉国家を目指したことはほぼないと言って良いだろう。その代わり、疑似福祉国家的な理念と制度には事欠かなかったのである。(P137)
●1980年代の消費主義を象徴するのが日本のポストモダニズムだった。マルクス主義をはじめとするモダニズム表現が不可能になり、消費社会の虚偽性がすべてを覆ったことをメランコリックに描いたポストモダニズムは、日本ではなぜか消費を促す躁的なものとして輸入された。(P189)
新自由主義の進展にともない格差が拡大するのは世界共通の現象だが、日本で特に深刻なのは、第一に、雇用・社会福祉・私生活すべてを包括する総体的な構想だった右バージョンの反近代主義が、直前まであまりにも堅固に残っていたことである。また第二に、他の先進国なら新自由主義の到来後に構想されてきた対抗言説も、左バージョンの反近代主義としてしか存在してこず、その本来の出番が来る頃にはその信頼をすっかり失っていたことである。その結果、セーフティネットなき日本型新自由主義と、高度成長・開発主義へのノスタルジーとの間にしか選択肢がないかのような、思想的な閉塞感が訪れることになった。(P202)
●左右の反近代主義に共通しているのは、国家や政党といったものへの軽視、民主主義の手続きを経た公共的な意思決定の軽視、ひいてはむやみな国家批判である。・・・ナショナリズムと、経済的・社会的リアリティとが連続的なものであることが、すべての立場の人々に常識として共有されなければならない。(P260)