とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

目的への抵抗

 久し振りに國分功一郎の本を読んだ。「スピノザ」も買ったが、こちらの方が薄かったので先に。コロナ禍の2020年と2022年に実施した二度の講義(講話)を収録したもの。

 前者(第1部)は、コロナ危機に伴う外出禁止等の制限に対して異議を申し立てたアガンベンの言説を取り上げ、自由の制限と行政権力の問題を。そして後者(第2部)は、コロナ禍でよく言われた言葉「不要不急」を取り上げ、消費と浪費、目的と自由、官僚制の問題などについて考察する。

 消費社会は浪費を嫌い、合目的な行動しか許さなくなくなるのか。その部分の設定からしてイマイチ理解できないが、筆者が言いたいのは、もっと自由に自律的に生きようということか。「『暇と退屈の倫理学』の続編としての性格を持っている」と書かれている。だいぶ前に読んだが、何が書かれていたのか忘れてしまった。それで、改めて上記の読書感想を読んでみた。「<人間であること>を楽しむこと。それが本書の結論である。」と書かれている。でもそれって当たり前。いや、現代社会ではそうした生すら生きることができない人が増えているのだろうか。

 さて、次は「スピノザ」。そして「中動態の世界」も面白いかもしれない。講義録なので、非常に読みやすかった。でもこれらは少し覚悟がいるかな。まあ、そのうちボチボチと。

 

 

○情報化したグローバル社会においては、危機は猛スピードで広まっていく。迅速に対応しないと手遅れになってしまうことも少なくない。こういう社会においては、行政が立法に対して先行しがちです。そして行政権の立法権への従属という原則が守られないことも大目に見られてしまう。でも、議会であれこれ議論するよりも、行政権力が物事を決めていった方がスピーディで効率的だというのは…事実上、独裁の方が効率がいいという考えなんですね。(P87)

○社会が反応しやすい「危険」は刻一刻と変わっていく。つまり、「危険」はそういう政治的な性格を持っているということなのだろうと思います。テロリズムが自由の制限の口実になっていた時だって、別のもっと大きな危険があったかもしれない。政治は危険に反応する人々の感情を利用するということだね。だから、いろいろな政治的、経済的、社会的な要因が混じり合って、どの「危険」がクローズアップされるのかが決まる(P107)

○楽しんだり浪費したり贅沢を享受したりすることは、生存の必要を超え出る、あるいは目的からはみ出る経験であり、我々は豊かさを感じて人間らしく生きるためにそうした経験を必要としているのです。必要と目的に還元できない生こそが、人間らしい生の核心にあると言うことができます。…それに対し、現代社会はあらゆるものを目的に還元し、目的からはみ出るものを認めようとしない社会になりつつあるのではないか(P144)

○もしかしたらコロナ危機において実現されつつある状態とは、もともと現代社会に内在していて、しかも支配的になりつつあった傾向が実現した状態ではないでしょうか。…そしてその傾向は、必要を超えたり、目的からはみ出たりすることを戒める消費社会あるいは資本の論理によってもたらされたのではないでしょうか。(P155)

○目的のために手段や犠牲を正当化するという論理から離れることができる限りで、人間は自由である。人間の自由は、必要を超え出たり、目的からはみ出たりすることを求める。その意味で、人間の自由は広い意味での贅沢と不可分だと言ってもよいかもしれません。そこに人間が人間らしく生きる喜びと楽しみがあるのだと思います。(P195)