とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

スピノザ☆

 先月読んだ、國分功一郎「目的への抵抗」は面白かったとはいうものの、講演録で、イマイチ掘り下げが足りないと感じた。その前に読んだ「資本主義の次に来る世界」で、デカルトから始まる機械論哲学が現代の資本主義を招き寄せたとして、「スピノザの思想が主流になっていたら、この世界はどうなっていただろうか」と書かれていた。スピノザの思想とはいったい? とりあえず、本書を読んでみることにした。

 まず、非常にわかりやすい。いや、スピノザの思想は、とてもじゃないが、理解できたとは言わないが、國分による本書の進め方と書き振りがわかりやすい。序章では、スピノザが生きた17世紀という時代の社会状況をスピノザの経験と主に描く。そして第1章は、スピノザの名が、ヘブライ語ラテン語スペイン語起源のポルトガル語の3つの名前でできていることを紹介し、彼の複雑な生い立ちを説明していく。

 その後も、スピノザの人生の歩みと歩を同じくして、彼の著作を順に紹介し、説明していく。「デカルトの哲学原理」「知性改善論」「神・人間及び人間の幸福に関する短論文」「エチカ」「神学・政治論」「ヘブライ語文法綱領」「国家論」。ちなみに「エチカ」の執筆を中断して書かれた「神学・政治論」は、「エチカ」の第1~3部と第4・5部の間に置かれる。彼の思想と著作はそれほど彼の人生と切り離せないのだ。そしてその書き振りが、スピノザの著作への理解を助ける。

 と言っても、先に書いたように、とても理解したとは言えない。特に「エチカ」第4部、第5部の「良心と意識」「自由」はかなり難しい。個人的にはスピノザの神学論が興味深い。スピノザ自身はユダヤ教徒として厳格な教育を受けたにも関わらず、いやそれゆえに、「神とは何か」ということを徹底的に考え抜く。そして発表された著作は、当時の社会では受け入れられず、逆に弾圧を受け、発禁処分となっている。しかしその徹底的に、かつ論理的に考え抜くという姿勢は神学論だけでなく、エチカが主題とする「倫理」=「人間の生き方」においても、その他の政治論や国家論などにおいても変わらない。何より採取の著作「デカルトの哲学論理」において、デカルトを徹底的に考え抜き、批判ではなく、さらにその先を考えていく。

 さて、「スピノザの思想」とは何だったのだろう? 「資本主義の次に来る世界」の著者ジェイソン・ヒッケルが何を考え、そう書いたのかはわからない。ただ、その徹底的に考え抜く姿勢は、資本主義には相容れないものかもしれない。資本主義は考えない人々を踏み台にして展開されたものだから。

 スピノザは面白そうだ。とは言っても、実際、その著作を読むのはかなりしんどそうだ。また、より噛み砕いたスピノザ論が出版されたら読んでみよう。その思想には確かに、真実に向かってまっすぐ進んでいこうとする真摯さが感じられる。

 

 

○神が神であるのはその「本質」ゆえのことである。/では神の本質とは何か。スピノザはそれに対し、「その(神の)存在は本質に他ならない」という答えを与えている。…神の本質は…神が存在しているという事実そのもの、無限に多くの属性からなる実体として存在しているという<こと>そのものである。…スピノザはどこかに存在しているはずの神の存在証明を行ったのではなくて、神が自然としてここに存在していることを描写しているのである。(P146)

○すべて在るものが神のうちに在るとは…あらゆるものが神の一部であることを意味する。神こそは存在する唯一の「実体」であり、様々な個物はその実体の「変状」として捉えられることになる。…存在する実体は神ただひとつだけであるが、神は実際には、常に既に変状して存在している。…一つひとつの個物は神が存在する仕方そのものである。…スピノザはこのことを指して、万物は神の力を「表現している」とも述べている。(P154)

スピノザは、自然のうちには自然法則に逆らうようなことは何も起こらないと述べ、奇跡のような我々の理解力を超えた出来事からは、神の本質や神の存在はおろか、自然に関わる事柄も何一つ理解できないと断言する。…スピノザによれば、聖書が説いているのは「服従」である。…そして、「神への服従とは、実質的には隣人を愛することに尽きる」(P234)

○自然状態においては法律が存在しないだけでなく宗教も存在しない…。自然状態は宗教状態に先行する。したがって、神への服従は神との契約によって成立する…。この約束によって、人々は…自らの自然の自由を譲り渡し、自らの権利を神に引き渡したのである」…と言っても…自然権という名の自らの能力を「放棄」したという意味では…なくて、…道徳心に従うようになった…ということである。(P259)

○自由は…言葉で説明されるのではなくて、経験されるものである。あるいは、自由とは、第三種認識という意識のあり方がもたらす結果である。…意識は我々の行為の決定に関わっている。…意識は自由をもたらしうる。/だとすれば我々が本当に『エチカ』を理解したと言えるのは、我々自身が『エチカ』の言う意味で能動的に生きて、ある時にふと、「これがスピノザの言っていた自由だ」と感じ得た時であろう。(P346)